家元のページ

この欄もずいぶんご無沙汰してしまいました。たまには目を通さなければと思いつつ忙しさに追われて、いずれその内にが続いてしまいました。何がそんなに忙しいのかと申しますと、ご承知のように現代琴は未だ歴史が浅いため、定番となるべき教本が定まっておりません。歴史のあるすべての楽器は例えばピアノならバイエルから始めるというように習得してゆく順序が定着しているのが普通なのですが、歴史の浅い現代琴では初心者のイロハから手探り状態が連続だったのです。やむなく初心者の生徒さんに事実上の実験台となっていただき試行錯誤を重ねて上達への道を探ってきたというのが実情です。特に当初の1〜2期生の皆さん(現在は全員師範資格者)には、やっとできたと思ったら次の実験また実験の連続で、自分が弾いてみたい曲などお構いなしで課題ばかりが押しつけられ当惑と堪忍の限りであったと思い、いまさらながらですがお詫びとともに大感謝しております。現在は初心者から中級者程度までの技術的な教程は定まってきておりますが、一流の曲を自在にこなすという理想に近づけるためには難題が多々横たわっており、いましばらくは実験台となっていただくことになりそうです。
 忙しかったのは上記の理由なのです。例えば、ある曲をソロで弾くとします。ソロとはメロディーと伴奏音を一人で発音するという、いわば音楽の三要素といわれるメロディー、リズム、ハーモニーの全てを含んでいなければソロとはいえまぜん。メロは勝手に省略や加筆することはできませんが、和音とかベース音は編曲者の裁量部分が多く、簡略なものから複雑な構成までどうにでも書くことは可能なのです。
 全くの初心者を対象とした場合、最初は童謡、民謡のような単純なメロのみで無伴奏からスタートするのが通常であり誰でも納得いたします。しかし人により差がありますが、習得時間の経過とともに単音のメロのみでは不満足となり、何らかの伴奏音がほしくなります。さて、どうするか。先ずは各小説に1音だけベース音をいれる。(仮に4拍構成なら全音符1ケ)次はベースを2ツにしてみる。この辺りまではほぼ思惑は当たります。ではベースを少し面白くしたいので簡単なリズムを導入してみようかな。と思ったあたりから練習者と編曲者のズレがはじまります。経験のある人はお判りでしょうが、メロは全ての曲で一定なのですが、どう伴奏音が付いているかによって天下の名曲も一転して騒音と化してしまいます。編曲者は格好良く仕立てたいので多くの音を加えて装飾したい欲求にかられます。習い始めて間のない初心者の人にオタマジャクシで真っ黒に見えるほど複雑な譜面を提供して、どうです面白いでしょう、は愚の骨頂。進度に応じた適切な伴奏音の配置で、しかも現代琴の発音機能も考慮し、その曲の雰囲気を損なわないサウンドを醸し出し、さらに琴上達に最適というジレンマのため、その1曲を何回書き直せば落ち着くのか皆目見当も付かない泥沼にはまりこんでしまうという訳です。これが多忙の最大の原因でした。最近ようやく当初の目標だった10巻(1巻20曲約200曲)程度の編曲が終了一段落ということでネットも目を通してみようかな、といったところです。(なお、教材の市販はしておりません)
 教本の編纂は能なしの私には本当に難しいことでした。既存の有名な曲を素材にしようとしても、その曲自体は何も琴を上達させることを目的として作曲された訳ではありませんので、必ずしも適切な音型になっているとは限りません。皆さんによく知られた曲の大部分は人が肉声で歌う俗に云う歌(ウタ)なので、決して琴上達用の音型とはなっておりません。そこでいっそのことバイエルのような琴用のテキストを作曲してしまった方が手っ取り早いかなと、何度も考えて着手してみました。ところがこれがまた、とてつもなく大変で、何か作っても過去の大作曲家の作品の部分的な継ぎ合わせになってしまい、オリジナルを創作することなどは不可能と断言できるほど新しい音の組み合わせは無く、無理に作ればチンプンカンプンな雑音の羅列となってしまい琴の上達どころでなく紙ゴミを山積させティッシュペーパーの増産に役立つだけなので残念ながらこの問題は現代琴の名人兼指導と作曲の天才の登場にお任せすることにしました。
 しかし、昨今の音楽文化界の世相は一体どうなっているのでしょうかね。耳に入る情報は、音楽関係の企業の倒産や合併吸収など暗いニュースばかりであり、様々な機械から流れ出る粗製濫造の音楽と称する騒音が一方的に垂れ流され、多くの大衆は感動する訳でもないのに習慣的に聞き流しているというのが現状でしょう。端末の音楽教室でも一般の音楽愛好家が自分で音楽を発信しようという能動性が著しく欠けてきたのではないかと心配です。でも若者は就活に追われ、不気味に忍び寄る戦争の影/赤紙の恐怖、中年はリストラ/派遣/家族崩壊の恐れ、年配者は年金不安/老後不安という状況では音楽を能動的に楽しもうという呼びかけ自体が間違っているのかな……思い起こせば私自身がB29やグラマンから逃げまどった少年時代だったのだから日本ではそれで仕方ないのかな……とは絶対に考えたくありませんので、現代琴を一つの手段として上品で豊かな音楽生活を提供し続けたいと願っております。

皆様こんにちは岡村秀山と申します。といっても本名は山口昭三と申しギタリストの山口昭三と云ったほうが古い音楽愛好家には憶えている方も多いかも知れません。
昭和9年横浜生まれの横浜育ち、父は貿易商で当然ながら家業を継ぐものとして横浜商業(Y校といっていま妙なことで有名)から慶応経済に進むというお定まりコースでスタートしますが、本人はまるっきり勉強もせず、朝から晩までただギターばかり弾いて自慢している毎日でした。父が他界してしまったので益々貿易商からは遠ざかり、巨匠小原安正師に師事するなど心はギタリストへと向かいます。学校を出てもすぐには音楽で生活できないので、やむなく公務員となり当時の 通産省の下っ端役人を結果的に6年務めることになります。
 ようやく念願の独立を果たし、かけだしの音楽家としてスタートをきったのが29才で当時のエリートギタリスト達から10年も遅い出発でした。出発が遅れた分を取り戻そうと、それからは必死でした。以後30年間に子供の頃に夢に描いていたギターでの願望を殆ど果たすことができましたことは幸運に恵まれていのかも知れません。そして60才を期に思うところあってギター界を引退することに決心しました。思うところとは何んぞや?これは永遠の謎にしておきましょう。
 ところでギタリストが何んで和楽器に参入することになったのか?実は縁あって女房をもらうことになったのですが、女房の旧姓が岡村で、義父が終戦直後から大正琴の教室を開設しており岡村流と称しておりました。その義父が他界したため家元不在状態が長年続いていたので同じ音楽業だからということで私が二代目を継承することになったのです。当時50才位でしたのでギターと大正琴の二足ワラジで目が回りそうでした。 
 ギターは引退し、大正琴の開発も一段落して落ち着いたのですが、餓鬼の頃からの弦楽器狂が災いしてか、ふとお琴に触れてみたくなり60才の手習いとばかりに、とある箏曲の先生の門を叩いたのが事の始まりです。そして一撃のもとに頭を斧で砕かれたほどのショックを受けました。何とお琴とは難しい楽器なのかと。自ら云うもおこがましいが、自分とてもひとかどのギタリストのはず、これしきの楽器が自由にならないことなどあり得ないとばかりに、血眼でいじくり廻してみましたが、先生が鮮やかに弾いてしまうのに対して自分の出す音は音程すら定まらず音楽以前の段階でお手上げになってしまいました。人には向き不向きがあるから、やっぱり自分には向いていないのかなと挫折感でしばらく琴を放棄していたのが第一歩でした。
 しかし、どうも悔しくてなりません。あんなに雅な良い音色に恵まれた楽器なのに、これほど演奏が困難では多くの愛好家に普及させることは極めて難かしく、一部の専門家のみの楽器に定着してしまうのではないか、また現実にそうなっている。それではいかにももったいない何んとかならないか。 初心者の人が短期間でバッハやビートルズが弾けるように出来ないものか。さてさてそれからが苦難の始まりでした。時間をみつけては、こちょこちょと改良を重ねること数年間、やっとどうにか考えていた機能を開発できたかな?というのが3年後でした。ところがいざ弾いて見ると、ここが駄目あそこが駄目の続出で皆様に公開できたのはやっと平成14年という始末でした。誰にも知られていない機能を大勢の愛好家に認めていただくには100年かかるかも知れませんし、まだまだ改良しなければならない点も多々あるでしょうが現時点では画期的改良と自画自賛しておりますのが、この現代琴です。現に楽譜も読めなかった初心者が1〜2年で、バッハのガボットやベートーヘーンのメヌエットとかビートルズのイエスタディ、レットイツトビーなどを楽しんでいるのを見ると、何か報われたという感じで幸福感一杯です。
 どうぞ皆さんも駄目で元々とお考えになって、現代琴の世界に飛び込んでみては如何でしょう。
きっとご満足いただけるものと信じております。
★家元・岡村秀山略歴 昭和9年横浜市出身、慶大卒、ギターを小原安正氏に師事、横浜ギタースクール創設、    (社)日本ギター連盟理事、東京国際ギターコンクール審査員等を歴任、後年岡村流大正琴家元襲名、      平成12年岡村流現代箏研究会創設。 

 今回は「よい音・わるい音」をテーマに書いてみることにいたします。よく巷で、何らかの音が聞こえてきたとき、「綺麗な音だね」という人と「きたない音だね」という人の二手に分かれます。しかし、一体どこにその基準があるのでしょうか?あの騒々しいバイクのエンジン音やジェット機の騒音も、バイク狂の人や飛行機乗りにとっては極めて快適な美音に聞こえるに違いありません。このような極端な話はともかくとして、ここでは楽器の音の善し悪しを考えてみたいと思います。
 お琴の音は平均的にいうならば美音とされております。でも、これはお琴の音が自身の聴覚の波形に合っているからそのように感ずるだけであり、仮にバィオリンの音が最高に美音と感ずる人にとっては、持続性のない、プツンプツンと切れる変な音色の楽器としか感じません。それに人間の聴覚を含めた頭脳は学習能力に優れているかも知れませんが、反面、洗脳されやすい欠点も持ち合わせております。俗に「三つ子の魂百まで」といわれますが子供の頃からいつも聞かされているお琴の音色(ネイロ)に自然に洗脳をされている日本人には、とりわけ美しく聞こえているのでしょう。それが証拠に我々がアフリカやアマゾンの奥地で現地人が奏でる民族楽器の音を聴いても、何となく違和感を感ずるのですが、現地の人達にとっては限りなく美音と聞こえているからこそ発達してきたのでしょう。世界中にはそれこそ数えることが不可能に近い種類の楽器が現存しております。もし、全ての人類が唯一最高と認める音色の楽器があるとしたならば、それ一つで良い訳ですが、無数の種類があるということは人間の音に対する感受性は明らかに多種多様であることを物語ります。
 私のギタリスト時代のギターの音色についての悩みを思い出します。20世紀最高の天才ギタリストとうたわれているセゴビアという人が大活躍した私の少年時代のことです。終戦直後のことですので到底セゴビアの生演奏など聴くことはできません。当然のことながら針を乗せて廻すレコードのみが唯一セゴビアの音に接する道具でした。セゴビアの音は柔らかく太く繊細で何と美しかったことか。私がギタリストを志したのはレコードによる「幻のセゴビアトーン」にあこがれたからにほかなりません。
 後年、念願かなって来日したセゴビアの生演奏を聴く機会を得ました。ダフ屋が暗躍するほどの盛況で、やっと手に入れたチケットをお守りのように握りしめ、セゴビアの舞台登場をいまや遅しと待ち受けていたのは感覚としては昨日のようです。そしてセゴビアが淡々と弾きはじめました。しかし、セゴビアの奏でるギターの音は長年期待に胸をふくらませていた「幻のセゴビアトーン」とは全く異なり、決して柔らかな感じではなく言うなればクリアな音だったのです。勉強が足りなかったといえばそのとおりなのですが、ギターの音色とはレコードによるセゴビアトーンとは似ても似つかない澄んだクリアな音が本来の音色であり、その音に世界の愛好家が酔いしれていたのだったのですが、それを知らずにセゴビアの生の音に違和感を感じてしまった自分をあとで身が切られるほど恥ずかしかったことかが思いおこされます。後年、段々とセゴビアトーンの秘密が判ってきましたが、レコードの録音をするときはホールの臨場感を出すために、当時はエコーマシン(今でいうリバーブ)といわれた残響効果の機械をとおすのですが、当時のデッカ盤といわれたレコード会社はこのマシンを強力にかけてセゴビアの録音をしたため、異常にエコーが強調されすぎて実際のギターの音色を歪めてしまい現実には存在し得ないギターの音を我々は聞かされていたということが判明したのです。さてさて、こうなると一体自分は何だったのか?エコーマシンに翻弄されて音楽屋で生涯を過ごす羽目になってしまうという情けない有様が判然として、がっくり肩を落とした記憶が甦ります。のちに至り「禁じられた遊び」で有名なイエペスというギタリストが、セゴビアとは正反対の金属的ともいえるハードな音色で一世を風靡したこともつけ加えておきましょう。
 このように音色とは極めて個性的なものであり、どの音がどの音より優れているなどとは決して云えるものではなく、各個人が美しいと感じた音がその人にとって美音なのであり、自分が良いと思った音でも、その音を決して他人に押しつけるものではない、ということを痛いほど実感してきた自分の半世紀だったと思います。
 さて、お琴の世界に戻りましょう。弾いてみると判りますが、同じお琴でも弾き方によって様々な音色が得られます。雑音が混入している音は論外としても、ハードな音、ソフトな音、大きな音、小さな音、伸びる音、切れる音など無数でしょう。そしてどの音が唯一無二の美音なのかというと誰にも判りません。そして判らないからこそ様々な楽器が誕生し、様々な弾き方の工夫がなされてきたのだと思います。少々荒っぽい結論かも知れませんが、音は自分が一番良いと思った音が、誰が何と云おうと自分にとって一番美音であることが確かなのですから。ただし、最初に一番だと思っても、勉強してゆく過程でさらに良いと思う音色に辿り着く場合も多いですから、より美音を追求してゆく努力も大切で、これがまたとても楽しいものなのです。皆さんにとっても是非さらなる美音を追求してゆくことが音楽人生の極楽だと云えるのではないでしょうか。
 ちなみに私の発する音は汚いと云われることの方が多い     (2006年4月1日)

  今回の話題は平成18年2月28日に開催した現代琴発表会での事前に公表できなかったエピソードを公開してしまいましょう。
 発表会自体は参加者一同約60名の人達が無難に演奏してくれましたので一安心といったところでした。問題はトリで演奏するスタッフグループの舞台でした。今回はアルゼンチンタンゴ、コンチネンタルタンゴを取り混ぜて5曲演奏予定で、私はベースとバンドネオンのパートを担当予定でした。ベースパートですから当然低音域の琴を採用し、ドスの利いたベース音でバシッと決める予定で老体にむちうって練習し、どうにか間に合わせられるところまでおさいしておきました。ところが何としたことか本番数日前に、弾いている最中に弦がプッツンと切れてしまい、あわててその弦を張り替えてみたのですが、また次の弦が切れるというハプニングが数回おきてしまいました。事前に十分のテストを繰り返したはずですのに、どう考えても弦の選択を誤ってしまったとしか考えられず頭の中が真っ白になってしまいました。万一、本番中にプッツンが出てしまったら正に一大事です。それではということで万一に備えてもう一面ベース用琴を組み立てておけば安心とばかりに予備琴を一面用意しました。ところがこの予備琴がまたまたプッツンのオンパレードとなり明らかに弦の選択ミスと判明しました。 判明して良かったといっている訳にはゆきません。数日後の本番を凌がねばなりません。さあ、あなたならどうする?。万策尽きて併設している大正琴教室の万能機種である電子式の大正琴に急遽切替えることにせざるを得ないことになりました。大正琴は私も長年やっておりますので多少はこなせるというももの、いきなり切り替えるにはいかにも時間が足りません。それに現代琴の演奏会に突然大正琴が、しかも家元の演奏として登場するのも如何なものか?というジレンマもあり、困り果ててしまったのが実情でした。しかし、本番には間に合わせなくてはならないので、朝練・夜練・昼練と根をつめ、やっと本番に間に合わせたというのが実体でした。
 さて、きっとファンの皆様の不満と失望に自身肩を落とすこと必定と覚悟していたのですが、何と意外なことに現代琴と大正琴によるアンサンブルが大受けに受けて、面白かったというご意見が圧倒的で演奏者がポカンとしてしまったというのが現実でした。そもそも琴でタンゴを弾くなどが明らかに冒険であるし、急場しのぎの他楽器の採用など計らざりき事多き発表会でしたが何はともあれ無事に終了できましたのでご報告させていただきます。
 折にふれて好き勝手な事を書かせていただくつもりですので、お閑の折りにはぜひお読みいただければ幸いです。(2006年4月1日)

 今回は楽器の練習について先輩から教わったこととか、自分なりに体得したこととかを羅列してみたいと思います。上達するには「一に練習、二に練習、三四が無くて五に練習」とは昔から云われていて、とにかくがむしゃらに練習すれば上達するという意味かと読みとれます。とにかく練習しなくてはお話にならないことは事実なのですが、その練習の仕方が大きな問題なのではないでしょうか。
 世に天才のいわれた名手が数多く輩出しています。一部の超天才を除くと、殆どの天才達は自分の才能は天賦の才ではなく、練習を厭わない性質に生まれたからよかったのだとおっしゃつています。多分謙虚に云われたことだとは思いますが大変重みのある言葉だと思います。                                音楽が好きで、ある特定の楽器に魅せられて、弾いてみたくて取り組んだものの、なかなか思うようには上達せず、出来ないヶ所を繰り返し繰り返し、いくらやっても自由にならなくて、私は音楽には向いていないのだ、と勝手に決めて投げてしまう人が後を絶たないことも事実です。これはその人があまりに高望みし過ぎた結果ではないでしょうか。上達とは世界一になることだと考えれば世界に一人しか望みは叶えられないのであって、他の全ての人は絶望の淵に沈みます。反面、何も弾けない人より、ほんの一寸だけ上手に弾ければ音楽の喜びを実感できると考えれば、志した全員が極楽を満喫できます。私は音楽人の全てが後者の考え方であるべきと思います。何故ならば世界でただ一人だけの天才だけに音楽があるというのでは、あまりに不公平だからです。
 さて、練習にはどうしても時間を費やします。一日にどの位時間をかければ良いのかという質問は多数寄せられます。しかしこれは単純にはお答えできません。取り組む曲の長短によるのです。一曲で数十分もかかる曲と2〜3分の小品では比較できません。そして多くの練習生のみなさんが気にする練習時間とは楽器に取り組んでいる時間の全部を指しておりますが、そのうち本当に練習している時間とはクリアな頭脳で集中した練習をしている時だけで、ただ漫然と楽器に対峙している時間は練習しているどころか体力を無駄に消耗しているだけなのです。先ずこの無駄を省きましょう。集中できなくなったら即刻練習を中断して頭の切り替えをしなくてはなりません。練習とは指先を動かす動作の練習ではなく、いかに秩序よく楽器を発音させるかの手順を頭脳に要領よく憶えさせるかが問題なのです。指が勝手に動いている訳ではなく、どう動かすかを頭脳が指令しているのですから、決して指の練習ではなく頭脳の練習なのです。頭では判っていても手がついてゆかないというのは、伝達してゆく神経が混線しているためなので、これを整理して混線状態を解消して信号がすんなり伝達してゆくようにするのが練習なのです。練習は手足でするものでなく頭でするものとご理解願えたら、居眠りしながら楽器と格闘するのは即刻止めて寝床へ直行しましょう。
 ゆっくりとしてスピードで弾くことが基本です。神経混線状態を整理するには最初から猛スピードで飛ばした練習をしていたのでは半永久的に混線を解消できません。困難なヶ所ほど、より遅くをモットーにして、アレグロ(速)ならラルゴ(遅)の練習を90%とします。この速さなら完璧という位に弾き込んでから、恐る恐るスピードアップしてゆきます。ゆっくり確実に弾いておけば、所定の速さまでアップさせるのには、さほどの時間はかかりません。最初から飛ばした練習をした場合と比較すると総練習時間は半減以下となるはずです。
 そして毎日少しずつコツコツ練習するのが秘密です。人間の記憶ほど頼りにならないものはありません。それが証拠には、その昔学校で学んだ学問などは、その後に必要だったものを除けば大部分が頭から消失してしまっているのが事実なのです。楽器の修得も同じことで、今日練習したことは明日ならしっかり憶えているが、明後日になると少し薄れてきて、一週間も経つと殆ど思い出さなくなります。経験的なことなのですが、一週間さらったものは一週間もち、1ケ月さらったものは1ケ月もち、一年さらえば1年もつと単純計算しておくとよいでしょう。ですから1日だけさらって、何日も経ってからまた1日さらうの繰り返しでは堂々巡りしてしまい、さっぱり先に進みません。これでは上達しないのが当たり前なのに、自分で勝手に音楽に不向きだと決めてしまっては正にお手上げでしょう。

@世界一を目指さず、昨日より今日が少し良いを目指そう
 A頭のクリアなときだけ練習しよう
 B記憶は必ず薄れることを前提にしよう
C練習速度は兎でなく亀です             
D音楽に不向きな人など世界に一人もおりません
            (2007年1月15日)
夢琴倶楽部